流しちゃってどこに書いてあったのか思い出せないのだが、最近読んだなにかの報道かblogに、若者が「努力が報われる」と思っていない、という大変印象だけな言葉でぶっ飛ばした記事が載っていたような気がする。
なんかいろいろ思ったので、断片的に書いてみます。
- (社会にコミットしたことのない)学生は、まだ真の意味で報われる経験をしたことがあるはずがないので聞くのがおかしい
- 努力が報われるためには、自分のした努力の分かりにくさに応じたプレゼンテーションの努力をしないと報われない(報われにくい)
- 最もシンプルな場合でも努力は2階層からなっており、ある到達点に向けた蓄積的な努力と(例えば試験勉強)と、努力をプレゼンテーションする機会(例えば試験)でのフロー的なメタ努力が必要
- 試験は非常に瞬発的なプレゼンテーション方法だが、努力をプレゼンテーションするための手法は多種多様なものがあり、向き不向きもあるような気がする
- 努力は、「努力を誰に評価されたいのか」という問題を意識するのが非常に重要。誰に評価されるのが望ましいのかを選べるようになる努力、評価してもらえる機会を得る努力など、努力が報われるためには一般的には複層的な努力が必要
- 一層目の努力しかせずに「努力が報われない」と言うのは、要するに必要な努力をしていないという事
- 価値観がモノリシックで一方向なコミュニティは、努力の方向性や評価基準が一般的にシンプルになるので、必要な努力の複層性を意識する必要が薄い(例:高度成長期の受験戦争→いい大学→いい会社など)
- 価値観が複雑化したコミュニティでは、努力の複層性を意識した努力が必要になる(どんな努力をするべきか取捨選択する選球眼を持つ努力、などが重要になる)
- というわけで、価値観が複雑化した社会では「努力は報われますか?」というシンプルな問いに答えるのは難しく、シンプルにしか答えられない質問にはネガティブアンサーが増える気がする
- ただし、有用な努力が比較的ストレートに評価されやすい社会やコミュニティの方がおそらく生きやすい
- 生産性の高い幸福な社会、というのは努力の複層性をコミュニティの成員が多く理解しており、方向性の異なる努力をなんとかコミュニティの力に活かせるような包容力を持っている社会であると考えられる
- 努力にコミュニティが報いるためには、コミュニティに資源蓄積が必要(必ずしも金銭とは限らない)
- 現代において中高等教育を受ける価値は、努力の複層性に気づかせてもらい、自分のしたい努力を評価されやすい環境に移動できる機会を得る可能性を高められる事?
等など。寝よっと。