久しぶりに読書ネタ。

自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)


なぞ読んでみた。で、思っていたことぞメモを。

僕は基本的に「自由主義者」で、特に文化・社会においてかなり自由原則でモノを考えていると思う。とはいえ、まさに本書のタイトルの通り、「自由はどこまで可能なのか」がいつも良く分からないのだ。ので読んでみた。

特によくわからんのが、なぜ「(国・地方を問わず)政府や法律」で、文化的なコントロールをしようとするのか、またその有効性があると信じられているのかがよくわからんのだ。

猥褻物陳列罪が典型で、あんなもん法律作って規制するような事柄ではないと思うのだ。同様に、深夜にクラブは営業するなとか、そういうのは全部なぜ制御しようとするのかわからない。どうして家族の形を法律で規定する必要がある?

さらに最近ややこしいのは、「青少年保護」を錦の御旗にすると規制や検閲がなんでもありになってしまいそうな論調が強いこと。準児童ポルノってなんだ???それは誰の権利を侵害してるんだ?

原則として「より良い社会を作るため」に「何かしてはいけないことを設定」してはいけないと思うのだ。誰かが何かをしてはいけないのは、他の誰かが何かをする自由を奪うことだけだと思うのよね。

とはいえ、何らかの社会秩序の維持機構が必要じゃないかという話もあるのはわかるんだけど、どうしてそこで、政府の横暴を往々にして訴える野党陣営が法による規制に走るのかわからない。

とはいえ、自由放任で全てなんとかなるとも思えんのよね。自由放任と多様性の維持を両立させるのは、自由放任ではないルールが必要なんだろうか? そのルールの執行母体は国なんだろうか?

まあ、この本自体は比較的経済制度とか法制度について裂かれているので、文化的な側面の話は多くないんだけど。でもまあ、文化と経済は一体だから。

経済面にしても、格差社会は良くない、是正は必要だ、っていうのはある程度賛成できる側面があるんだけど、それは社会が比較的安全に多様性ある形態を実現するためには、なんらかの形で所得の再配分が起きた方がいい、というような前提になると思うの。でもさー、例えば農村への補助金ばらまきとかってまったく多様性の維持には寄与しないじゃない。政府がある種のバイアスをもって所得の再配分をやるのはすごくバランス悪く間違った高位なきがするんだよね。

仮にまっとうな所得再配分があり得るとして、変な政策バイアスなしにそれを実現することは可能なんだろうか? それを実行する母体は政府や自治体なんだろうか? 

負の所得税というアイデアがなんか妥当な気がしてくるんだけど、それもなんか現実レベルでワークするのかよくわかんない。

まあ、全面的に賛成しておお、オレはリバタリアンだ、って思えるような本じゃなかったんですが、立ち位置をクリアにするというためのホントしては非常に面白かった。