読んでも見てもいないのだが>恐るべき子供たち
昨今の青少年ネット規制だのなんだのを見ていて思うのは、結局のところ大人は子供が恐いんだよなあという話。
子供は理性がなく、判断力がなく、守るべき対象であり、社会によって庇護せねばならない。
さらに加えて言えば、大人は自分の理性に自信がなく、自分の判断力に自信がなく、子供を守る自信もないので、社会=自分ではない誰かがスケープゴートになってくれるシステムによって擁護しておいてもらわなければ恐くてやってらんない。
要するに子供というのは絶対的他者に近い存在であるにも関わらず、庇護対象であるという、統治権力にとってはある意味まったく持って都合の良い存在。子供を守ると言ってしまえば、その他者の理解可能性などを全く意識する必要が無く - 絶対的他者なんだもの - 社会の原理原則 - 例えば憲法 - に反するルールを設定してもあまり問題がない、というか、絶対的他者への恐怖の方が上回る。
しかもその際、直接的に対象者をコントロールする可能性がないことになっているので、制御対象になるのは社会の参加者であるところの代理人 - 例えば通信サービス提供者や出版社 - を制御していい、というわけで。都合いい話ですよね。
でも考えてみりゃ、直接法律制定しようなんて、わかりやすすぎてある意味稚拙な話でもある。例えばじゃあ、青少年に限らず対象者によって見られるモノゴトを制御できるアーキテクチャを導入しておいてください、なん事だけがルール化されて、そのアーキテクチャの制御は自主規制と称して3社ぐらいの談合で作られた権力機構の天下り組織が一括管理、なんて事になるよりよほどマシなんじゃないかなどと思うのは杞憂なんでしょうか。