少し編集。

まあ、現場にいない方には信じにくいものがあるかもしれませんが、昨今の大学講義では「授業中に携帯電話で話す学生」などという、論外な子がいたりします。

でまあゆとりがどーのとか、ゲーム脳とか言っててもまるで意味がないので、その子の側に立って考えてみます。そもそも授業中私語をしてはいけないという感覚がない。携帯電話は私語の延長。自分が今話したいという欲望には素直に従う動物的行動。云々。

でまあ、ちょっと学生側の問題は置いておきます。はっきりいってそこまでなると既に単なる論外だから。

でも、こういう話を少し考えた後に思うのは、学校という制度が提供しているコンテンツ、授業という講義のメディア経験が、アテンションエコノミー的な観点で言った時に全く競争力がないという事です。

昨今のメディアコンテンツというのは、良くも悪くもパーソナライズもしくは特定のコミュニティに特化して提供される傾向が非常に強いわけです。で、あらかじめそういう状態に馴らされている学生が、受講生が多いとパーソナライズがほぼ不可能、かといってマスメディア的に高コストな洗練さもない、という状態のコンテンツそれそのものでアテンションを集めろ、という方が無理なわけです。

大学って本当は特定のInterestを持つコミュニティなんじゃないかという気はしなくもないんですが、実際には1年生ぐらいだと単なる烏合の衆、自覚的に選択した集団というよりはそうならざるを得ずに設定された集団という意味合いが強いと思われます。

現状の学部レベルでの平均的大学講義というのは、要するに学位授与という既得権益に守られることで、辛うじてメディアとしての権威を維持して成立していると考えられないでしょうか。

ではこの既得権益を敢えて突き放してみてみたときに、アテンションを集め得るコンテンツたり得るかというのを考えると、やり方としては

  • 大学を特定目的集団として成立させるような、コミュニティとしての通過儀礼の設定
  • CGM的な低コスト型コンテンツとしての再設計
  • 複数メディアの統合効果によるコンテンツの魅力の設計
  • マイクロコンテンツの集合体として再設計したチャネル化
  • 特定講師の即応型対応により、パーソナライズされた感覚を与える

などの方法が考えられるのではないかと思うのですが、こういうことを考え始めると、既得権益たる単位ベースの学位授与というシステムが単なる足かせなのではないかと思ってきたりしませんか?

オチはないんだけど。ねむくなったのでねるだ。