流行物が好きなのでこんなのを読んでいます。

人は意外に合理的 新しい経済学で日常生活を読み解く
人は意外に合理的 新しい経済学で日常生活を読み解く
クチコミを見る


さて、この本で一章を裂いて「合理的な人種差別の危険性」というテーマが書かれています。基本、アメリカ黒人についての話なんだけど。

要するに、生得的な能力に人種間に差がなく、「黒人嫌い」というような不合理な差別意識が雇用側になかったとしても、黒人労働者は教育を受けることをやめ、雇用者は黒人をなるべく傭わないよう、負のスパイラルが起きてしまう可能性とそのメカニズムの話がありまして。

さらに、「白人の真似」をするやつは嫌われるというシステム、「勉強好きな黒人の子供は仲間から徹底的にいじめられる」という背景にも残酷だけどある種の合理性がある、どんよりする話が載っている。

一応念のため、この章の最後には(とてもアメリカらしい)希望の種も乗っています。しかしこの希望の種は日本では、特に現代日本では成立しにくい要員があるので、ますますうんざりできます。

という章を読み終わった後で、Twitter読んでいたら姉と知人がこんな会話をしていた。

  • 「そえば小学校高学年の頃の勉強のできる女子には、独特の「優等生やってらんねーなあ」的アンニュイ感があって、あれはよかった。萌える。...」
  • 「彼女たちが向かった高偏差値の私立の女子高ってのは、シェルターだったのかもしれないな。」

ああそうだった、日本の場合、自縛的に発生してしまう最も顕著な差別は性差だった。

昔から分からないことがあって、少なくとも僕は自分の周りにいる人たちを見る限り(まあなんていったって妻はどう考えても僕より優秀なエンジニアだ)、Computer周りの作業をさせたりさせたときに、女性が男性よりも優れている理由はあっても、劣っている理由はあまり見つからない。ただ単に人口が少ない。

この前中3相手に教えていて改めて気づいたのだが、「それが分かるか分からないか」以前に、コンピュータに関する話と言うだけで、女子の一定層が "It's not my business!" 感を醸し出しているような気がしたのだ。

気がしただけなのか本当にそうなのか、合理的に説明できるような統計は取っていないので、印象論なのですが、コンピュータに限らず、「理系に女子が少ない」のは、「理系に女子が少ない」から。「女性の社会進出が進まない」のは、「女性の社会進出が進んでいないから」というような、自己完結的な説明と、それを裏打ちする自縛的なコミュニティによる同調圧力がかかってるせいなんじゃないのか、という仮説がだんたん重くのしかかってくる。

勉強をすること、特に理系の勉強をすることが「男の子の真似」というような明示的な揶揄をされることは少ないとは思うのだが、「女の子のくせに」というフレーズであれば、まあ馴染みがあるでしょう。

ちなみに、ちなみにその続きで知人がtwitいたのだが、

「子供の頃、いじめられるのって真っ直ぐっていうか純粋っていうか不器用な子じゃない?勉強できるできない関係なく。真っ直ぐ学問にうちこんでる人もその中に含まれるかもしれないけどー...」

まあ、そうなのかもしれず。要するに自分の知的能力を「空気を読む」事に振り向けているほうが、短期的な生きやすさに圧倒的に寄与する。それをしないですむのは、「空気を読んでかつそれを無視して自分のしたい方向に空気を作れる」HPとMPを持つ革命家か、「空気を読んでないと言われてるのを無視して、自分のしたいことに熱中できる正負両方の鈍感さ」を持つ魔法使いしかないのだろうか?

となると、シェルターとしての私立女子校は一種のアフォーマティブ・アクションとして機能して居るんだろう。一次逃避には有効だろうけど、中期手に社会全体にとっては逆に足かせになってしまう可能性もある。

まあいろいろ考えつくんだけど、この章の「黒人」を「女子」だと思って読んでみると、気味が悪いほど一致するような気がするんだよ。そして、その事がものすごくこの社会を僕にとって生きにくくしているような気がして成らないんだよね。