大学一年生向けに基礎ゼミという授業を一クラス分担当しているのだが、これがまー、教える側のハードルが高い。資料は共通資料があるので、とりあえず授業はできるけど、どうにもうまく教えられている気がしない。というわけで今日からテーマはロジカルシンキングだったんだけど、教えるの難しいわ−。ロジカルシンキングって、正直自分でも得意ではないし。

基礎ゼミというのは要するに「ものの考え方」の訓練と実践をして、一定の成功感を得られればいい授業なんだと解釈してるんだけど、これが。

すごく見くびったいいかたをすれば、大学一年生のほとんどは「自分で自発的に物事を考えた」ことがないんだもの。

うちの大学は決して一流校ではないので、「成績がいい」タイプの子がいっぱいいる学校ではない。じゃあバカばっかかっていうとそんなことなくて、話してみると結構いい気づきをする学生や、頭いいなあと思う学生はいっぱいいる。学生に失礼な言い方をすれば、拾いモノの多い大学ではないかと思う。

ところが、そういう結構イケてる学生も含めて、課題をやらせてみるとなんでこうなんだろと思う事がある。(もちろん、いい課題を出してくる学生もいっぱいいる)。

課題の内容的な質がどうこうより、単純に条件を満たしていない場合が結構ある。課題の全体像や意図を読み取った上で、課題条件を「文字通り/リテラルに」読んで、ソツなく埋めることがあまり得意ではないのかもしれない。それじゃあいい成績は取れないよなあ。学校の成績は頭がいい悪いというよりは、ソツのなさが一番成因になるし。

なんというか、森と木を同時に見れない感じとでも言うか。森を見ろといえば森を見るし、木を見ろと言えば木が見れても、同時には見えないらしい。

また、自分で条件や内容を吟味しないで、「だいたいこういうことでしょ」という雰囲気だけ読み取ろうとする傾向が強い。悪い意味で空気を読めばOKだと思っている上に、実際には空気も読めてなかったりする。もちろん全体概要を把握するのは大事なんだけど、なんというか、中身を見ないで、空気・雰囲気だけで問題が解けると思ってしまっているのではないかと思う事がある。

正解がある問題を手順に従って解いたり、周辺状況になんとなく適応する訓練ばかり積んだ上に、それが得意ではないと思っているのかもしれない。

全体から感じられる、多くの場合圧倒的に足りないことは、「自分で自発的に物事を考えた」経験なのではないかというのが今のところの感想。自発的に物事を考えた経験が豊富であれば、課題や講義の内容を<自分で>吟味する事が可能だと思うんだけどね。

その経験を、いわゆる「勉めるを強いる」勉強ではない形で、かつ高等教育機関にできる経験の与え方はないのかというのを考えているんだけども、やっぱり教室の前に立つと、学生に「勉強しろ」と言うのが一番簡単で、どうしてもそういう物言いになってしまう事がある。勉強させた時点で自発的じゃないし。今日もまあ、それに近いような物言いで学生を叱ってしまった。叱ってる時点で、何か教育的誘導の失敗の累積があるわけで、自分がイヤになる。

同僚たちには、ほんといい先生が多くて(いや、ほんとに多いんだ嘉悦。イイ大学だよ今)。実に見事に、自発性を誘導できている事例が多く見られて、なんであれができるのか、ほんと不思議。

どうにもこうにも、私が学習するしかないわけではあります。どーしたもんかね。

なんかタイトルと書いた内容がズレてるような気がしてきたが、これはなんとなく私の中ではそういうテーマの一つでもあるんですよ。