1月末、初めて主担当教員になった卒論生が一応卒論提出した。

先輩とか別の先生の卒論を手伝ったことは山ほどあるけど、自分直下の学生は初めてなので、それなりに感慨がある。

私個人としては「卒業論文」という形式にあまりこだわりはないつもりだったし(後述)、だいたいおれ卒論書いてないので(古の読者の皆様はよくご存じでしょうが)、

当初それほど重く見るつもりはなかったのだが、いざ目の前に「論文」と書かれた紙の束が置かれると、赤ペンを持たずにはいられない。だってそういう訓練受けてるんだもの!

別にうちのゼミ生個々人を揶揄するつもりはありませんが、やっぱ文章指導しねーとだめなんだという事に気づくのに実は時間がかかった。提出した2人は、とりあえず11月末のゼミ内締切に文章の断片は出してきたし、まあ目次案はできてるし、テーマもまあ明確だし、分量もそれなりにあったので、とりあえず全体を形にしろと言う指導をしてたんだけど、半月前になっても仕上がらないので細かく文章を読み始めたら、結構手を入れないといけないことに気づく。というわけで最後の一週間はものすごくドタバタ。

最初は言ったところしか直して来ないのでイライラしていたが、十数回ぐらい突き返してたら、次第に自分で他にも直さなきゃいけない部分があるらしい事に気づいてきたらしく、自主的に直し始めたときにはちょっと感動した。まるで指導が有効みたいだ! 元々日本語の文章書くの得意な子たちじゃないし、この分量の文書について細かい文法修正じゃなくて論理構成の修正について真面目に取り組んだことないんだろうから、そりゃまー誰かが見てレビューしなきゃ何を直せばいいのかも分からないのか、と気づく。

とはいえ全体としては「卒業論文」が必要なのか私にはよく分からないし、なくてもいいと思う。「卒業制作」として何かプロジェクトに取り組むのは必要だと思うけど、「ただ字数が多めで、文献調査ばかりで、創造性に欠ける文章」を書く必要はあまりないと思う。

研究者になろうというなら別で、事実私は卒論書かずに大学院進んだので結構苦労した気がする。あとまあ、シンクタンクとかコンサルタントとかやるんならやっといてもいいような気もする。要するに(必要かどうかは分からなくても)そこそこの規模のプロジェクトについて論理的思考とドキュメンテーションが必要な職業ね。

でも、それ以外の職業なら、むしろ短い文章にエッセンスを集約するような方向性の訓練の方が有効ではないだろうか。A4で5ページぐらいの中身のある文章を書くとか。むしろ、文章ではなく、10分ぐらいのプレゼンテーションを雄弁にできる事の方が優先順位が高いような気がする。

あと、卒論という形態を取ると、グループワークがしずらい。もちろんしっかりした体制が取れてるんなら、グループで活動した上で個々に論文をまとめればいいわけだけど、実際卒論レベルでそこまでしっかり分業する意味のある規模のプロジェクトはなかなか成立しないだろうし。

今年は少なかったから結構直接指導したけど、院生もいないのに、10人も20人もゼミ生がいて、一万字の卒論ちゃんと全部指導するのはちょっと無理っぽいし、プロジェクトに取り組ませた上で、少なめだけどロジカルな文章を書かせて、それに基づいてプレゼンテーションさせる、みたいな形にしていきたいと少なくとも再来年以後は考えております。

とりあえず卒業「論文」必修はなんか不毛なのでやめたほうがいいと思う。論文書いた方がいい子は書くべきだと思うが。ていうか院生いないのに全員卒論なんて普通に無理筋じゃねーのと、院生の多かったゼミ出身者としては思うのですが...

などと卒論について考えていたら、例の「修論廃止のお知らせ」http://slashdot.jp/article.pl?sid=11/02/01/0742253 が。うーん。

とりあえず、自分のゼミを持ってみて一つ言えることは、人間自分が受けてきたテイスト以外の方法で指導をするのはなかなか難しいので、ゼミというのはまるで自分が受けてきたゼミのようになってしまいがちだということ。まあでも、実はそういう意味では私はSFCの複数ゼミ移動自由&他ゼミ交流が割とあったことで救われてる部分は結構あるよな。

まあさあ、なんか卒論にせよ修論にせよ、要するになんか力点置くバランスが偏っていておかしいんじゃないかという点についてはなんとなく同意します。とはいえどう直すべきなんすかね。とりあえず、現状それなりに有効なハードルになっていると思われる修論を廃止するんなら、それ以外の指導方法をかなりシステマティックに導入しないとヤバい事になりそうですね、と。