モテたくて

自由を奴等に

大学の先輩(席次に「新郎後輩」って書いてあったからまあそういうことなんだろう)の披露宴?にお邪魔してきた。

正直、本当は披露宴にお邪魔させていただけるほど深いご縁とは言い難いのだけど、例のクイズシステムをご利用頂ける知人の方のイベントにはなるべく出席させていただいておりまして、今日もお言葉に甘えてお邪魔してきた。

しかし、あんまり詳細を聞いていなくて、パーティーだって聞いてたけど披露宴じゃんどう見ても!親族いるし!

まあそれよりなにより、ネットワークとかソフトウェアとかメディアとかインタラクションとかにそれ以上詳しい人が出席してる日本での結婚パーティーが想像し難いよーな、学部長とか学科長とか恩師とかお世話になった先生とかだらけの宴席でアレを使うのは気が引けるので、せめてそういう場だって先に言ってください。別にもう枯れてきてるのでトラブったりはしないと分かってるけど無意味に緊張します。さすがに。

日吉の協生館になんだかんだで初めて行ったんだけど、なかなか魅力的な施設で非常に羨ましい。似たようなことやりたいと思ったとして、資金と実行力があったとして、駅直結の立地があってこそだもんなあ、あれ。

よつばのフィギュアがテーブルに鎮座ましましている披露宴も十二分にオーバードーズ気味だったんだけど、二次会は大量のKMDの学生さん入り交じった教室でのパーティーで、結婚式の二次会という言葉から想像され得るものから数百万マイルぐらい離れたカオティックな宴となっておりまして大変興味深く、面白うございました。ありがとうございました。いいものを見せていただきました。

しっかし、考えてみりゃほんとに、あの大学院のやりたい領域って新郎のAB面合わせたもの向けだもんなあ。新郎ぴったりだよなー。

まあ、祝いの場だから、というのはあるにしても、なんだかんだでKMDが結構楽しそうに見えたので、羨ましくもなんとなく嬉しい。何がなくても、楽しそうなパーティーが開ける学生と教員がいるなら、学校としては全然アリなんだよなあ、と。奴等に適度な自由さえ与えれば、何かが生まれるんだろうと思えるもの。学生がいない不思議な大学機構に3年勤めた身として深くそう感じました。

ロジカルシンキングと同調圧力

大学一年生向けに基礎ゼミという授業を一クラス分担当しているのだが、これがまー、教える側のハードルが高い。資料は共通資料があるので、とりあえず授業はできるけど、どうにもうまく教えられている気がしない。というわけで今日からテーマはロジカルシンキングだったんだけど、教えるの難しいわ−。ロジカルシンキングって、正直自分でも得意ではないし。

基礎ゼミというのは要するに「ものの考え方」の訓練と実践をして、一定の成功感を得られればいい授業なんだと解釈してるんだけど、これが。

すごく見くびったいいかたをすれば、大学一年生のほとんどは「自分で自発的に物事を考えた」ことがないんだもの。

うちの大学は決して一流校ではないので、「成績がいい」タイプの子がいっぱいいる学校ではない。じゃあバカばっかかっていうとそんなことなくて、話してみると結構いい気づきをする学生や、頭いいなあと思う学生はいっぱいいる。学生に失礼な言い方をすれば、拾いモノの多い大学ではないかと思う。

ところが、そういう結構イケてる学生も含めて、課題をやらせてみるとなんでこうなんだろと思う事がある。(もちろん、いい課題を出してくる学生もいっぱいいる)。

課題の内容的な質がどうこうより、単純に条件を満たしていない場合が結構ある。課題の全体像や意図を読み取った上で、課題条件を「文字通り/リテラルに」読んで、ソツなく埋めることがあまり得意ではないのかもしれない。それじゃあいい成績は取れないよなあ。学校の成績は頭がいい悪いというよりは、ソツのなさが一番成因になるし。

なんというか、森と木を同時に見れない感じとでも言うか。森を見ろといえば森を見るし、木を見ろと言えば木が見れても、同時には見えないらしい。

また、自分で条件や内容を吟味しないで、「だいたいこういうことでしょ」という雰囲気だけ読み取ろうとする傾向が強い。悪い意味で空気を読めばOKだと思っている上に、実際には空気も読めてなかったりする。もちろん全体概要を把握するのは大事なんだけど、なんというか、中身を見ないで、空気・雰囲気だけで問題が解けると思ってしまっているのではないかと思う事がある。

正解がある問題を手順に従って解いたり、周辺状況になんとなく適応する訓練ばかり積んだ上に、それが得意ではないと思っているのかもしれない。

全体から感じられる、多くの場合圧倒的に足りないことは、「自分で自発的に物事を考えた」経験なのではないかというのが今のところの感想。自発的に物事を考えた経験が豊富であれば、課題や講義の内容を<自分で>吟味する事が可能だと思うんだけどね。

その経験を、いわゆる「勉めるを強いる」勉強ではない形で、かつ高等教育機関にできる経験の与え方はないのかというのを考えているんだけども、やっぱり教室の前に立つと、学生に「勉強しろ」と言うのが一番簡単で、どうしてもそういう物言いになってしまう事がある。勉強させた時点で自発的じゃないし。今日もまあ、それに近いような物言いで学生を叱ってしまった。叱ってる時点で、何か教育的誘導の失敗の累積があるわけで、自分がイヤになる。

同僚たちには、ほんといい先生が多くて(いや、ほんとに多いんだ嘉悦。イイ大学だよ今)。実に見事に、自発性を誘導できている事例が多く見られて、なんであれができるのか、ほんと不思議。

どうにもこうにも、私が学習するしかないわけではあります。どーしたもんかね。

なんかタイトルと書いた内容がズレてるような気がしてきたが、これはなんとなく私の中ではそういうテーマの一つでもあるんですよ。

ニコ動に公式チャンネルをつくりました

最近自分の事をあんまり書いておりませんが、うちの大学でニコ動に公式チャネルを作ったんで、ご興味あるかた、どうぞ。

http://www.nicovideo.jp/tag/kaetsutv

次回は加藤先生の気になる子ちゃんの予定です。(うそです)

kaetsu.tv

自分の勤務先を堂々とアピールしたいのかどうかよく分かりませんが、まあ隠してても仕方あるまいということで。

勤務先では同僚たちがこんなことをやっております。

http://kaetsu.tv/

カトカンにニコ動で突っ込めるよ! 以上!

人は見た目が100%でありモテたくて惚れたいのである

http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20080717

また雨宮blogに素敵な事が書いてあったのでそれについて思うことなど。

以前も何かにつけ書いた事があるような気がするが、私の信条として

「人は見た目が100%」

というのがあり、なんとかそれを教員として学生にうまく伝える事ができないかと思うことがあります。いやおまえそのツラでそのちょいメタボで言ってんだと思われますので具体的な方策は考えてないんですが。

まあそれにしてもさ。「人間は内面」とか言ったってさ、外見以外の何から内面知れっていうんだよと。そんでもってまた、外見「だけ」取り繕っても内面というか外見とセルフアイデンティティとの間にある程度バランスが確立されてないと、間抜けなだけですよねと。まあ間抜けなのも可愛いって考え方もあるが。

ヤンキーテイストは個人的には嫌いだが、ああいう外見をするのはそれはそれで内面を伝えるためのメッセージを採用しているわけで、他者の視線に対する鋭敏さという意味では真っ当な態度であって、問題は誰にどう見られたいのかっていうあたりの感覚のところであろう。(潜在的なモノを含む)仲間内以外からどう見られたいんだよあんた、的な問題。

まるで外見に気を遣っていないんですよー、というような「げんしけん」の斑目が咲ちゃんに言われる前の状況のようなオタク的な外見というのも、「秋葉系」という言葉ができちゃったりカテゴライズされたりすることから分かるように、外見に気を遣わないというのも含めて内面をメッセージ化してしまうわけですよね。それで買ったジャケットがアキバ専用服になるのが可愛いんだけどあれは。>斑目

というようなのは、長年たぶんお洒落だと思って人生生きている姉に思春期にかなり指導されつつ、鉄道研究部とかオタワールドにきっちり遣っていたあたりから今現在に至るまでのマイライフの反映であるわけで。

モテたくて(by 天久聖一)の意味をすごく広く取ることで、「他者からの視線によってのみ社会的存在としての自己は構成される」というテーゼを割とシンプルに伝えられると思っているのですが、「モテたくて」を読んでそれを考えろと言っても無理な気はするのだが。

モテたくて…


「モテたくて」が重要なのは、最後の方が「惚れたくて」になるっていう事でもある。単にホメ殺しじゃねえかという話はあるが、「モテたくて」=他者からの視線に対して真摯に対応する、なのだとしたら、「惚れたくて」=他者の外見的メッセージに対して徹底的にポジティブな読解を、誤読であろうが何であろうがやる、というかなりアグレッシブな態度表明を行っている事ではないかと思う。

「好みのタイプ」を探しているよりは、「相手の中で自分が好みなところ」を探した方が幸せになれるような気がするじゃないですか。

というようなあたりは生きる上で重要な態度だと思うんだけどな、と良く思うのでできればうまく後輩たちに伝えたいモノだなと思うんだけど、上下関係が存在する場所で言うにはなかなか Politically Incorrect な表現になってしまいがちなので、難しい。

で冒頭に戻って雨宮blogだけど、すごくいいなと思ったのが「この人の書いていることは、必ずしもモテや恋愛のことじゃなく、鬱病だらけの世の中をサヴァイブする知恵、みたいなことなんじゃないかと思う。」っていう一文。

僕は女子じゃないし、そもそも蝶々さんの本読んでないから僕自身が直接どう感じるかは分からないんで、女子学生に勧めるかっていわれたあまりにキモすぎるのでしませんけど、例えばむしろ10代男子は読むとすごい勉強になることが書いてありそうな気がするんだよな。

もちろん自分の関わった人が中身のない人には成って欲しくないけれど、「人は内面」だなんて無責任な事を僕は言いたくないし、外見だけに振り回されるのも内面しか考えないのも鬱への道に一直線って感じでお勧めできないと思いました。

それこそ「死ぬほど」外見は重要なんだけど、その重要さってのはそんなに悪い事じゃない、僕たちが社会性を持っているっていうのはそういうことなんだよ、っていう事が伝えられるといいな、と思いました。

この手のメッセージを書いている時の雨宮まみblogは本当に素敵だと思いました。
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