大学

大学初年次教育に必要なもの

なんかどこに書こうか考えたが、たまにはblogを使おう。

嘉悦に来て以来「初年次教育やさん」グループとしてずーっと「大学一年生に必要な何か」について考えてるんだけど、考えれば考えるほど、「@Nifty デイリーポータルZ」 http://portal.nifty.com/ の記事が作れることではないかと思うようになってきた。具体的に項目を羅列すると、こんな感じ。

  • 身近な物事に興味を持って社会的な関心と結びつける
  • 自分の経験に照らし合わせて事実を調査して評価する
  • 詳しい人に聞く
  • ネットや文献で調べる
  • 調査結果をデータとしてまとめる
  • グラフで必要なものを表現する
  • 簡単な画像や動画で簡潔に自分の関心を説明する
  • ファクトを集める
  • フィールドワークを実践する
  • 人とは違う視点を持つ
  • 仮説を立てて自分で調査し検証する
  • 情報を分類・整理する

具体的な記事としては、この「どこまで東京?」http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/ なんてほとんど完璧。この記事が書ける/楽しめる程度のリテラシが学生の8割に植え付けられたら初年次教育って充分だと思うんだよね。ほんとに。

そつろん!

1月末、初めて主担当教員になった卒論生が一応卒論提出した。

先輩とか別の先生の卒論を手伝ったことは山ほどあるけど、自分直下の学生は初めてなので、それなりに感慨がある。

私個人としては「卒業論文」という形式にあまりこだわりはないつもりだったし(後述)、だいたいおれ卒論書いてないので(古の読者の皆様はよくご存じでしょうが)、

当初それほど重く見るつもりはなかったのだが、いざ目の前に「論文」と書かれた紙の束が置かれると、赤ペンを持たずにはいられない。だってそういう訓練受けてるんだもの!

別にうちのゼミ生個々人を揶揄するつもりはありませんが、やっぱ文章指導しねーとだめなんだという事に気づくのに実は時間がかかった。提出した2人は、とりあえず11月末のゼミ内締切に文章の断片は出してきたし、まあ目次案はできてるし、テーマもまあ明確だし、分量もそれなりにあったので、とりあえず全体を形にしろと言う指導をしてたんだけど、半月前になっても仕上がらないので細かく文章を読み始めたら、結構手を入れないといけないことに気づく。というわけで最後の一週間はものすごくドタバタ。

最初は言ったところしか直して来ないのでイライラしていたが、十数回ぐらい突き返してたら、次第に自分で他にも直さなきゃいけない部分があるらしい事に気づいてきたらしく、自主的に直し始めたときにはちょっと感動した。まるで指導が有効みたいだ! 元々日本語の文章書くの得意な子たちじゃないし、この分量の文書について細かい文法修正じゃなくて論理構成の修正について真面目に取り組んだことないんだろうから、そりゃまー誰かが見てレビューしなきゃ何を直せばいいのかも分からないのか、と気づく。

とはいえ全体としては「卒業論文」が必要なのか私にはよく分からないし、なくてもいいと思う。「卒業制作」として何かプロジェクトに取り組むのは必要だと思うけど、「ただ字数が多めで、文献調査ばかりで、創造性に欠ける文章」を書く必要はあまりないと思う。

研究者になろうというなら別で、事実私は卒論書かずに大学院進んだので結構苦労した気がする。あとまあ、シンクタンクとかコンサルタントとかやるんならやっといてもいいような気もする。要するに(必要かどうかは分からなくても)そこそこの規模のプロジェクトについて論理的思考とドキュメンテーションが必要な職業ね。

でも、それ以外の職業なら、むしろ短い文章にエッセンスを集約するような方向性の訓練の方が有効ではないだろうか。A4で5ページぐらいの中身のある文章を書くとか。むしろ、文章ではなく、10分ぐらいのプレゼンテーションを雄弁にできる事の方が優先順位が高いような気がする。

あと、卒論という形態を取ると、グループワークがしずらい。もちろんしっかりした体制が取れてるんなら、グループで活動した上で個々に論文をまとめればいいわけだけど、実際卒論レベルでそこまでしっかり分業する意味のある規模のプロジェクトはなかなか成立しないだろうし。

今年は少なかったから結構直接指導したけど、院生もいないのに、10人も20人もゼミ生がいて、一万字の卒論ちゃんと全部指導するのはちょっと無理っぽいし、プロジェクトに取り組ませた上で、少なめだけどロジカルな文章を書かせて、それに基づいてプレゼンテーションさせる、みたいな形にしていきたいと少なくとも再来年以後は考えております。

とりあえず卒業「論文」必修はなんか不毛なのでやめたほうがいいと思う。論文書いた方がいい子は書くべきだと思うが。ていうか院生いないのに全員卒論なんて普通に無理筋じゃねーのと、院生の多かったゼミ出身者としては思うのですが...

などと卒論について考えていたら、例の「修論廃止のお知らせ」http://slashdot.jp/article.pl?sid=11/02/01/0742253 が。うーん。

とりあえず、自分のゼミを持ってみて一つ言えることは、人間自分が受けてきたテイスト以外の方法で指導をするのはなかなか難しいので、ゼミというのはまるで自分が受けてきたゼミのようになってしまいがちだということ。まあでも、実はそういう意味では私はSFCの複数ゼミ移動自由&他ゼミ交流が割とあったことで救われてる部分は結構あるよな。

まあさあ、なんか卒論にせよ修論にせよ、要するになんか力点置くバランスが偏っていておかしいんじゃないかという点についてはなんとなく同意します。とはいえどう直すべきなんすかね。とりあえず、現状それなりに有効なハードルになっていると思われる修論を廃止するんなら、それ以外の指導方法をかなりシステマティックに導入しないとヤバい事になりそうですね、と。

最近の一部学生さんの日本語文章

最近レポートをチェックしていると気になることがあります。

日本語の文章を書く場合、例えば一行40文字だとすれば

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 私の名前は中野です。私の家は中野にあります。中野には中央線や総武線、東西線など
で行くことができます。中野の中には野があるのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

みたいになるはずですが、一部の学生さんの典型的な文章はこうなっちゃうのよ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の名前は中野です。家は中野にあります。
中野には中央線や総武線、東西線などで行くことができます。
中野の中には野があるのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あまりイイ例じゃないんだが、要するに、読みやすい位置(行区切り、句読点)で改行入れちゃうわけ。で、段落冒頭の字下がりをしない。

うーん。

電子メールだと僕もこう書くことが多いし、blogだと字下がりしないし、っていうかこのまま日本語LaTeXに食わせればいい!という説もあるが。

うーん。

このままWordで印刷して提出されちゃうとやっぱり違和感があるし、行と段落を意識してないので、修正指導しないといけないのですが。

とはいえ、段落は二重改行・字下がりなしとか、英語みたいに一行一定文字数じゃなくて単語区切りで改行しちゃうとか、それはそれで新しい日本語の清書法としてルール化されたりしないんだろうかと、ふと思った。

大学の誕生(下)をやっと読了みたいな

片手間に読んでたので全部読むのに半年近く時間がかかってますが、新年一発目の出張に行く途中のTG641機内でやっと上下巻全部読み終わった。新書で上下分冊というやり過ぎ感を著者も反省していらっしゃるようなのだが、そりゃまあ、第一人者がこんだけ「大学が誕生するまで」について気になっている諸々を書いていたらこの分量にもなりますよねえ、という内容。

それにしても充実した内容で、およそ「大学というシステム」について一度でも興味を持ったことがあったら、非常に面白い本だし、読んでおくべき本ではないかと。取り扱っているのは大正末期ぐらいまでの、1930年体制前までの話だけれど、出てくる議論がいちいち、今も似たような議論していているよなー、という感覚に満ちあふれていてすごく興味深い。あとがきの次の言葉が、正に読後感とも一致しているのです。

「『不易流行』という言葉があるが、大学改革とそれがもたらす変化という「流行」を追っているうちに、「不易」の部分、つまり改革の対象とされている我が国の大学組織や、高等教育システムの基本的な構造は何か、あらためて気になり始めたのである。明治の初めから数えても、150年に満たない大学・高等教育の歴史である。きわめて現代的な改革問題の多くが、その短い歴史のなかにルーツを持っているのではないか。現代的と見える問題の多くが、実は歴史的な問題ではないのか。」

本文では、明治末期〜大正期の、<(旧)専門学校>の<(旧)大学>への変換に至るまでの諸々の議論が紹介されていて、例えば次に示すような様々な話題が出てくるわけだけども、これら全て個人的に自分が巻き込まれているシステムの問題としてとても現代的な問題であり続けてるわけですよ。

例えば、大学の社会的役割について、「ドイツ・ヨーロッパ・モデル」vs「アメリカ・アングロサクソン・モデル」のモデル的対立とか、面白いんだよねえ。SFCの修士あたりがいまいち研究についてはっきりしない感じとか。専門性って何、とか。うちの大学なんて経営経済学部単科で今年まで大学院もないんだし、なんで "University" なんだよ "College" じゃん、と思うといった話題は、ああ、この頃から続いているんだよなあ、とか。

はたまた、今で言うところの国立vs私立の関係や、大学間序列の発生について。特に私学関係者にとっては、実質的に裾野を支える形になる私立セクターの役割、一方で常時私立セクターにはリソースが足りないという歴史の繰り返しはあまりに構造が変わってないので興味深い。微妙な気持ちになりつつも塾員の端くれとしては、慶應・早稲田ってのはほんとたいしたもんだよな、とか。慶應・早稲田がなかったら国の形がずいぶん違ったように見える。

全入関係で言えば、厳しい入学試験で学力選抜が行われる事は、供給量が入学希望者より少ないから成立する話なんだよなーといった、時代時代における、大学入学希望者と供給量の関係。他にも、理系・文系の成立であるとか、大学における外国語の役割とか、大学関係教授会自治システムの成立であるとか、停年制成立前の老教授たちによって新陳代謝が起きない帝国大学、等々。

ことごとく、今自分が議論したり巻き込まれている、大学に纏わる諸問題の原点がこの本に出てくる感じすらある。

私はこの2年ほど、嘉悦大学でカトカン学長の手下として、こぢんまりとした大学ながらも学内的には結構アグレッシブだと自認している改革をお手伝いさせていただいている。いわゆる「全入時代」に、倍率1.x倍程度で、大学として成立するかなりギリギリの線で踏みとどまっている状態を、いかに充実させていくかを日夜考えているおります。そういう状況で大学の運営委員会や新しい大学院の設立準備会議の末席を汚してみていると、「システムとしての大学」、「どうして大学はそういうものだとされているのか」、にどうしても興味が沸くんですよね。

また、その前の職場であったところの慶應DMC機構は、学部や大学院と切り離された研究所というかなり特殊な組織で、というのも元々が国立大学の構造改革に伴う補助資金を私立大学にも拡大させたという資金を獲得して設立されたという由来などもあって、何かと改革を要求される時限立法の組織だったので、これまた「大学って何?」という疑問をずっと考えざるを得ない場所でした。また、そもそも出身学部・大学院が所謂大学改革の旗手であるところの慶應SFCで、学際的研究なんてことをずっと言われていたりもしておりまして。だいたいさかのぼったら父親が大学教員だしさ、子供の頃から大学の研究室や大学の学生さんたちと触れてたし。毎年元旦は父の研究室の新年会が家であったのよ。親戚の集いでは父親と叔父さんが文科省にグチ言っていたのよ。

だいたい今この飛行機乗ってるのも考えてみればベトナムの大学の充実の支援とやら、なんで、余計なお世話なような気もしつつ、日本だけじゃなくて世界的にみて「大学ってどういうもの?」ってどうしても考えちゃうんだよねえ。

そしてまあ、いつも「自分の研究」を二の次にしてしまう私、といった問題もありまして。

と、割と大学入学してからこの方ずっと、「大学とは一体何なのか」について、おそらく一般的な伝統ある大学機関の出身・関係者よりも、皮膚感覚として考える必然を、背負わされたというか背負っちゃったといいますか、そういう者として、大変興味深い書籍でありました。

彼女と学園祭

今日は私の大学の学園祭です。

そして私のDSの中も今日は学園祭です。

というわけで彼女と学園祭を回ってみたよ!

送信者 2009/11/01 嘉悦大学飛翔祭

送信者 2009/11/01 嘉悦大学飛翔祭

送信者 2009/11/01 嘉悦大学飛翔祭

美男子コンテスト(DS内)のは敗北したようです。わたし。

高校生以来の夢がかなったはずなのに、なんだろう、この微妙な感じは...

模擬店で食べ過ぎてだいぶ胃もたれ気味です。人生この方模擬店でこんなにもの食べたのは初めてです。

新学期

新学期。

だるーい。

少しでも学期中の苦労を経験すべくある程度想定しておいた授業内容が通じなさそうな科目が一個。どうすっかなー。

にしても自分が緩んでいるのも、学生がそれ以上に緩んでいるので致し方なくこっちはしっかりせざるを得ない。

ったく学生さんたちは一回目の授業は出席してりゃーいいだけなんだから、それぐらいは頑張ろうよ。こっちは一回目の授業に向けて授業の準備からやってんだからさー。

「最近の学生はまともな日本語が書けない」について考える

学期が終わったので、採点時期。レポートをまとめ読みしてみる。最終レポートぐらい赤入れして返してみようかと思ったのだが、内容・文章とも、赤入れしようとするとついきっちり呼んでしまうので、いくら39人クラスと言えども一日仕事でまだ終わらない感じ。

内容面はまあ、「ああ、それ教えてないもんねー」等、どっちかというとこちらの至らなさを把握する感じではあるが、問題は文章力。

確かに「最近の学生はまともな日本語が書けない」んだよなーとしみじみ思う。まともな日本語としてそこそこまともなレポートをかけているのは、基準緩めに設定して2人いるかいないか、そんぐらい。

でもなんか、それって当たり前な気がするんだよね。というわけで、「最近の学生はまともな日本語が書けない」についての考察を少ししてみた。

そつのなさと文章力

何度か書いておりますが私の大学は「大学入試に向けて受験勉強を超頑張る」層ではない学生がターゲットなんです。入試の勉強でもっとも重要なのは知識よりなにより、「そつのなさ」を身に付けることだと考えると、はっきりいってうちの学生は「そつだらけ」。

慎重さに欠けるし、まあ大学の必修授業のレポートなんて書き殴ってるだろうし、コンピュータリテラシの授業でそんなに日本語をチェックされているとも思ってないだろうし、おそらく「文章を見直して、整合性をチェックする」なんてやってないんだろうなー、というような、文章力以前の問題が全て「日本語が書けない」という現象として表出する。

この両ファクターを切り離して検討できれば面白いんだけど、「良い文章」を書くために必要な事のかなりの部分は、丁寧な執筆と慎重なチェックにあることを考えると、「そつのなさ」の訓練を積んでないというのはかなり弱点になるんだろうなと思う次第。

お前こそめちゃくちゃな文書のblog書き殴っといて何いってんだという感じではありますが、そんな感じー。

漢字変換とアプリケーションの問題

長年つきあわされれているので、「ああ、MSIMEの学習がそういう風に働いたのね」というような誤字脱字を凄く見かける。また、文章の基本ルール(冒頭インデントとか)を守れてないのとか、改行・改段落の位置なんかについて、ああ、Word のインターフェースをそう使うとたしかにそこでインデントを入れるの忘れるだろうなあ、みたいなのがうっすら見えることがある。

私は職能の都合で、そういうシステムとかアプリケーションの癖に振り回されている姿がよく見えてしまうんだけど、そんなにPC使って文章書き慣れてないお年寄りの方とかは、それもまた純粋に日本語力の欠如に見えることであろう。

というようなシステムの癖は、ATOK使うだけでも結構警告してくれていいと思うんだけど。まあもっとも「MSIMEの癖」が「ATOKの癖」に置き換わるだけだけど。とりあえず「私の大学の授業の」には≪「の」の連続≫って警告してくれるだけいいじゃないですか。

MSIMEよりはいいですよねVoid先生。ダメですかね。

ケータイメールの影響

ケータイメールじゃないんだから、「は」を「わ」で書くのやめなさい!

。。。ねえ、本気で書いてないよね?大丈夫だよね?単に癖になっちゃってるだけだよね?

徹底的なレビューの未経験

フルチェックしていて思ったんだけど、僕がそこそこ日本語が書けるつもりになっているのは、学部生の時にK先生にCNSガイドの原稿を死ぬほど赤入れされたから、というのが最大の理由だと思う。

で、こうして学生のレポートをチェックしていると、全員分のレポートに赤入れするのってコスト高すぎてなかなか難しい。ということは、よほど親切な先生に過去であったことがなければ、「まともに日本語が書ける人にまともな赤入れをしてもらって」文章を書いた経験なんてあるわけがなさそう、という事が想像できる。

書いてみて、ダメだって言われて、直す。それを徹底的に何度かやった経験がなければまともな文章なんて書けるわけないよなあ。

「思いました」文体

思いました文体の話は以前書いた通りだけど、今日も感じた。

http://logn.10yama.net/archives/50602231.html

簡潔で明瞭な文章についてのロールモデルの欠如

高校までの教育で、「客観的事実と主観的意見を区別し、簡潔で明瞭に書かれた、内容の面白い文章」なんてほとんど読んだことがないか、それが「名文」であると教えてもらったりした事はないんだろうな。

「文章には起承転結が必要です」とか教えられて意味わかんなくなってたりしてそう。想像だけど。要らないって起承転結なんてレポートに。せめて序破急にしてくれ(何)。

少しでも質のいい新書でも読んでる学生ならまた違うだろうけど、残念ながらうちの学生の多くは、読みたくもない物語や新聞を無理矢理読まされて、読書が嫌いになっているタイプが多いようなので、学校の勉強以外のロールモデルシステムも期待薄。

だいたい、「先生」やってるヤツの何割が簡潔で明瞭な文章かけるかね。

文章の種類

私は「読書感想文」が得意で、物語をよく読んでいて、文系小論文が得意だと受験の時に思っていて、その自信を全部赤入れでぶっこわされて「簡潔で明瞭」を目指す意味と価値をおしえてもらった上で、それを無視してダラダラblog書いたりしてるんで、どのパターンでもまあ対応白って言われればしますよと思えます。

が、ツールとしての文章を使いこなすには、そこらへんの使い分けが非常に重要であることを教育してもらう機会は、かなり貴重なもので、多くの学生は受けられてないんだろうなあ。

というわけで

普通の理系学部だとこれを読んでおけ、という事で終わったりしがちだが、正直これももう、今の学生の生育環境に適応してるかっていうとまた別議論だよね。全然理科系じゃなくても通用する本なのはよく知られている通りだけど、タイトルがなあ。まああと、正直重すぎるんんだよなー内容が。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))
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新世代の良さそうな本も出てるけど、「これだ!」っていうのは未だに知りません。知っている人がいたら教えてください。

大学生のためのレポート・論文術 (講談社現代新書)
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とかかねえ。

避暑

嘉悦大学のセミナーハウスまで避暑に来ています。まあ、お仕事合宿なんだけど。

とはいえ、涼しいので頭が少しは働く。素晴らしいぞ。

子供の頃、某神奈川県の国立大学の教育学部の寮が別荘代わりになっていたものとしては、大学の寮に夏に来るって感覚がすごく懐かしい。もちろん、大学の規模が違うから寮のサイズも全然違うけど。ここはほんとちょっとした別荘ぐらいのサイズしかないからね。

でもADSL来てるしね。素晴らしくない?

あーもー八月中ずっといようかなここ。

私たちはどこから来てどこへ行くのか(もしくは行かないのか)

「そもそも理系と文系ってのはどうやってできた区分なのか」を知りたいなあと思ってなんとなく調べて以来、日本の大学ってどうしてこういう制度になっているのかが結構興味がある。

というところでこの本が図書館にあったので読んでみました。

大学の誕生〈上〉帝国大学の時代 (中公新書)
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これはとってもイカした本であった。読んでよかった。

個人的に面白かったのは大きく分けて3つで、

  • 近代日本の学校制度は、小学校から上っていく軸と高度大学=帝国大学から降りていった軸が別立てで成長し、その接合に非常に苦労していた点
  • 大学の学位付与権の位置づけはかなり曖昧で、アカデミア=帝国大学である中での高等教育機関卒業によって得られるものが何であるのかが初期はかなり不明瞭
  • 私立大学の揺籃期に関する、特に「官学-私学」の構成軸に関する議論

特に私学出身者としては、私学の成立史はすげえ面白かった。初期の慶應ってやっぱ面白いな。一番出てくるの東京専門学校=早稲田だけど。

いくつか印象的な話題。

  • 「X周年事業」で基金を集めてインフラ投資をして、その後の事業を回していくというビジネスモデルの起源
  • かなり初期の大学に対する文部省の「飴と鞭」として使われた道具が、兵役免除であったこと

などもかなり面白い。

ココロに響いた節を2つほど引用。

P346「私学がまだ、『学歴』と無縁の自由な学習の場でありえた時代が、たしかに合ったのである」

P374「国家は一切の財政的な支援をせず、ひたすら『アメとムチ』で私学の、まさに命がけの努力を引き出し、私的で個人的な負担による低廉なコストで、高等教育の機会の拡大と人材養成をはかる。現在に至る、巧妙とも狡猾ともいうべき高等教育政策の形は、明治36年という二十世紀の始まりの時点で、すでに作られていたことになる。」

面白そうでしょ?面白そうじゃない?そうですか...

自由を奴等に

大学の先輩(席次に「新郎後輩」って書いてあったからまあそういうことなんだろう)の披露宴?にお邪魔してきた。

正直、本当は披露宴にお邪魔させていただけるほど深いご縁とは言い難いのだけど、例のクイズシステムをご利用頂ける知人の方のイベントにはなるべく出席させていただいておりまして、今日もお言葉に甘えてお邪魔してきた。

しかし、あんまり詳細を聞いていなくて、パーティーだって聞いてたけど披露宴じゃんどう見ても!親族いるし!

まあそれよりなにより、ネットワークとかソフトウェアとかメディアとかインタラクションとかにそれ以上詳しい人が出席してる日本での結婚パーティーが想像し難いよーな、学部長とか学科長とか恩師とかお世話になった先生とかだらけの宴席でアレを使うのは気が引けるので、せめてそういう場だって先に言ってください。別にもう枯れてきてるのでトラブったりはしないと分かってるけど無意味に緊張します。さすがに。

日吉の協生館になんだかんだで初めて行ったんだけど、なかなか魅力的な施設で非常に羨ましい。似たようなことやりたいと思ったとして、資金と実行力があったとして、駅直結の立地があってこそだもんなあ、あれ。

よつばのフィギュアがテーブルに鎮座ましましている披露宴も十二分にオーバードーズ気味だったんだけど、二次会は大量のKMDの学生さん入り交じった教室でのパーティーで、結婚式の二次会という言葉から想像され得るものから数百万マイルぐらい離れたカオティックな宴となっておりまして大変興味深く、面白うございました。ありがとうございました。いいものを見せていただきました。

しっかし、考えてみりゃほんとに、あの大学院のやりたい領域って新郎のAB面合わせたもの向けだもんなあ。新郎ぴったりだよなー。

まあ、祝いの場だから、というのはあるにしても、なんだかんだでKMDが結構楽しそうに見えたので、羨ましくもなんとなく嬉しい。何がなくても、楽しそうなパーティーが開ける学生と教員がいるなら、学校としては全然アリなんだよなあ、と。奴等に適度な自由さえ与えれば、何かが生まれるんだろうと思えるもの。学生がいない不思議な大学機構に3年勤めた身として深くそう感じました。

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