大学教育

TV的フレーム

先日、私の勤務先(嘉悦大学)の試みがNHKの「おはよう日本」で4分ぐらい報道されまして。「中退防止の取り組み」というフレームで。

比較的好意的に報道していただいてはいたのですが、そこはTVというものなので、「こういうフレームで行く」という枠で切り取られる訳ですよね。大学の中退防止を図るために学校は奮闘している、的な4分間。

とはいえ、大学としては「中退防止」という観点を捨てたわけじゃないにせよ、別に中退が多いから慌てて何かしているとか、中退率見て連動して何か動かしてるとか、そういう事じゃないんだけど。名前を間違えられていた私の同僚にせよ、「中退問題担当の教員」なんかをやらされた覚えも、やってる覚えもないだろうけど、字幕ではそう出る。だってそういうフレームだもの。

報道していただいた内容のほとんど全ては、ただ単に「より良い大学環境とは何か」をシンプルに追求した結果のスキームであって、仮に中退率が今後下がっていくとしても、それは言わば二次的な結果に過ぎないんだけどね、本当は。まあとはいえ、あえて世間的な言葉を使えば、顧客満足度の向上を図っているとも言えるし、中退率は下がるだろうなあ、と期待しつつ取り組んでいないわけではないけどね。

ほぼ丸二日間各所を撮影していって、実際に使われるのは4分程度。先生や学生に山ほどインタビューを撮って、取り上げられるのは教員2人、学生が数カット。もちろんテレビというのはそういうものであると分かっているわけですが、改めて再確認したわけですが。

逆に見て、あの4分のために丸二日もスタッフ動員するんだから、そりゃーテレビって制作費かかるよなあ、とか感心してみたりもしたんだけど。というか、NHKだけだよな。あれに二日もかけるの。すごいよね。

あのコーナーで我々として一番ありがたかったのは「ね、テレビってこういうものなんだよ」っていうメディアリテラシー的な経験を、学生に伝えられる事かもしれない。

私たちが取り組んだ基礎ゼミのカリキュラムは、わかりやすいフレームで切り取れば、「夏休みの目標を立てさせる」にShrinkする。それは仕方ないけど、仕方ないんだけどさ。「夏休みの目標を立てさせる」のが目標でやってるわけじゃないんだ!とは言いたくはなるよね正直。

それなりに「大学生らしい」思考スキームや表現方法を伝えることが基礎ゼミの目標なんだけど、問題はそれを「まだ大学生になりきれていない」学生さんたちの経験から離れすぎないネタを使ってやる必要があるところ。メタな思考も血肉にしなければならない。それなりにハードルが高いです。

一見高度な言葉や専門的な知識を与えれば、それを勝手に自己の経験や社会に当てはめて考え抜いてくれるほど、今の学生さんは「高度で専門的」に対して無条件に付加価値を認めてはくれません。血肉になる「思考の経験」の仕方を、しかも必修授業で与える上手い枠組みを、こっちとしちゃ必死で考えているつもりだけど、もちろん学生には必ずしも伝わってないし、TV的なフレームで見れば「夏休みの宿題」を「傾聴って言葉も分からない」学生考えさせていて大変ね、になるわけ。

「傾聴」を言い換えるのはただ単に、概念を教えるだけならその言葉を使えばいい。でも「実際に傾聴をする」のがどれぐらい難易度が高いかは、実際教員みんなでコーチングの訓練やって、どの程度本気で傾聴するか難しいかは分かった上で、「傾聴してみろ」って言ったってできないよね、と分かった。じゃあそれをどう説明するか悩む。実際にやってみたり、言葉を言い換えてみたり、メタファーを使ったり。でもその過程は、TV的フレームで言えば「傾聴をチョー聞くに言い換えるアホな教員会議」になるんだよね。やっぱり。

ま、私も別にそういうTV的フレームはそれはそれで好きな時もあるし、実際朝のTVの1枠で今書いたようなことなんて伝えられるはずもない。

そりゃそうだよな。前の年から延々と議論して準備して、一ヶ月10人の大学教員が(半端モノでも)取り組んで教えようとしてる内容のスナップショットなんだもん。

なーんて言ったら負けなのかもしれない。もし僕が本当にそのTV的フレームが不満なんだったら、4分間で、「中退防止」ぐらいわかりやすい文脈で、自分がした努力とやらを、プレゼンテーションできなきゃ負けなんだろうなあ。やりたきゃYouTubeでもなんでもあるわけだし。流す方法。

いったいどうやって世間に伝えるんだ?となったら、本質的には、受講した学生さんたちに期待するしかないんだけどさ、そんなこと言ってもずいぶん先の事になっちゃうから、上手いアピール方法を考えないいけないんだけど、はてさて。

とりとめございませんが、まあ何かいろいろ思うところがあったので書いてみた。

ご批判を頂いていて面白い

私の大学に関する読売の記事についてコメントをいただいたようで面白いのでリンクする。仕事前なんで手短に。

http://www.ashida.info/blog/2009/07/post_365.html

「そもそも「担任」はラインではない。カリキュラムや授業がくだらないことが、「居場所がない」ことの最大の理由なのに、「担任」はその相談には本質的に乗れない。」

全くその通りで、担任を担当してはいるが、誠実にやろうとすればどうやったって自校否定の要素は含まれてくる。大学の「担任」をやるのは、否定するのはアリだと信じて好きにやってるけど、何に肯定する価値があって、何は否定していいのか、自分自身のラインをなるべく学生に伝えていくことは結構重要なんではないか、と思った。

とりあえず、まあ新聞記事にまとめられるとあんな感じですけど、文面より面白いことやっている自負はある。つったってまあ、それが世間にアピれなきゃなんの意味もないんだけどね。

あと、とりあえず、ほんとは入試から変えて、マッチングを正確にやらないと、「偏差値で評価されたら勝てない学校」が生き残る意味はないのかなと。

精深な学識

先日とある場所で話題になったのですが、文科省しか使っていないのではないかという日本語、「精深な」という言葉があります。

どういう場所で使われるかというと、具体的には大学院設置基準、修士課程について。平成15年版より。

「修士課程は広い視野に立って精深な学識を授け専攻分野における研究能力又はこれに加えて高度の専門性が求められる職業を担うための卓越した能力を培うことを目的とする。」

でも、「精深」という日本語は、現在は調べた限り、広辞苑にも大辞林にも大辞泉にも載っていないのです。とりあえずATOKは変換できません。なお、これは「せいしん」と読むようです。某所ではみんなで「せいたん」と読んでいましたが違うみたい。

ググってみると、ヒットするのはほぼ全て、上記設置基準に整合性を持たせる形で書かれた、各大学院の学則ばかり。

なお、大学院の位置づけの遷移については下記アドレス参照。

http://d.hatena.ne.jp/next49/20080116/p1

で、じゃあ旧文部省の学校規定表現にいつ「精深な」が出てくるのかを調べてみたんだけど、どうも一番古いのは明治27年の女子高等師範学校規定ではないかと思われる。

http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_064.html

ようするに、高等性を明示的に規定上で差別化しなくてはいけなかった時に使ってみた表現が「精深な」なのではないかと思われるわけです。

じゃあ明治期に「精深な」が一般的な表現だったのかどうかなんだけど、まあ明治期にポピュラーだったら今の国語辞典にも載ってそうな気がするんだけど、どうなんでしょう?

興味深いのは、中国語辞典には「精深な」が載っていたこと。

http://www.ctrans.org/cjdic/search.php?word=%E7%B2%BE%E6%B7%B1

j���ngsh���n: 深く詳しく

まんまですな。

というわけで、これは漢語もしくは漢文由来なのではないかと思いつつ、かなり頑張って検索結果の深いところに出てきたのが、

朱子の「小学」を安岡正篤が読み解いてくれる下記の本「人間としての成長」。

http://books.google.co.jp/books?id=GHnlB6cA63AC&pg=RA1-PA209&lpg=RA1-PA209&dq=%E7%B2%BE%E6%B7%B1&source=bl&ots=D_fXR--0k4&sig=bdgukmfxII_EKTIulNMP9EK9RVY&hl=ja&ei=_x8MSujNDoXo7AOUp-zzBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=10#PPP1,M1

でどうも朱子&精深でググると中国語文献がいっぱい出てきて(当たり前)そろそろめげてきました。

明治期の教養ある官僚あたりが漢文的な表現を規定に使って、それがあまり近代日本語としてはポピュラーになる事はないまま、文字面としてはそのままで分かったような気になるので、戦後の学制改革時にもそのまま生き延びて、現代に至る。

というような感じで生き残っている言葉なのではないだろうかというのが今のところの推理。モガモガ。

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