結局どこにいってもエイリアンなんだなーと思う。
どこにいっても、たぶん二言目には「で、そのシステムはどうすれば変えられるんですか?」と思ってしまう。
どうも世の中の平均はそうではない。おおかたの認識はこんなところであろう。
- ルールはアプリオリに存在するものであり、変更できるものではない
- ルールを変えるコストよりは小手先のワークアラウンドの方が簡単
- システムは自分とは関係ないところで設計・運用されている
- 自分はシステムとは違うところで大切なものがあり、システムを変えるのなんて面倒なだけ
- コミットすると言い出しっぺの法則が出てくるからコミットしない
- 一度つぶやいて変わらないものは多分永遠に変わらない
多分、そう明示的に認識していないまでも、世の中の多くの人にとって、システムやルールというのはそういうものだと思われているような気がする。
全く持ってSFCのヤなところでもあるのだが、SFC卒の知り合いと話していると、変えるべきシステムやルールを変更すべきだ、という感覚は割と自明に存在する。論点はその難易度とコスト。ところが、どうも世間の平均では、この難易度とコストは常に無限大に見積もられる傾向があるような気がする。
結果として私はどこにいっても、なんだかいつでもエイリアンになってしまう。いつでも当事者目線でない別の自分が「それって変えていいんじゃないの?」とつぶやくんだもの。
SFCっていうのにその原点を求めるのは、今の仕事仲間たちに多いから、理由追及としては分かりやすいけど、個人的な原点はもっと根本的なモノな気がする。
父は物事を突き詰めて考えるのを由とする人だったし(極論も好きだ)、中学や高校ではルールの意味と無意味をかなり徹底して経験したような気がする。大学以降はそんな感じ。初期のパンクやニューウェーブも、モンドリアンや革命ロシア美術が好きなのも、KLFや Second summer of love が好きなのも、日本の鉄道が好きなのも。プログラマの格言「手を抜くためには手を抜くな」がとても好きなのも。
僕は多分システムというものが好きで、その仕組みを考えるのが好きで、それが変わっていくプロセスが好きで、それを変えることにコミットする快感が身についているんだろうな。ま、これって結局、一生つきあうことになるある種の病気みたいなものなんだろうな、と思った。
変えてうまくいくかどうか保証がなくても、変えないでうまくいかないより百万倍マシだ!