なんとなくビール飲んでチャットしてたら出てきたので書いてみる、「SFCが世界だとすると」
- 福澤諭吉=イエス・キリスト
- 三田=ローマ法王庁
- 加藤寛=ルター
- 相磯先生の配役がわかりません。カルヴァン?
- SFC=プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
- 村井純=リンカーンあたり?ケネディ?
- 村井研=USA
こういうの最近あんまし見ないので懐かしい気がした。個人的には北欧かあたりの役割を目指して頑張っていきたいと思います。
なんとなくビール飲んでチャットしてたら出てきたので書いてみる、「SFCが世界だとすると」
こういうの最近あんまし見ないので懐かしい気がした。個人的には北欧かあたりの役割を目指して頑張っていきたいと思います。
今年はなんとSFCの法定停電対策に出かけなかったのです。いったい何年ぶりでしょうか。たぶん10年単位です。
割と本気で自分が管理に関係するマシンはもうないと思っていたが、いや、復電したらアレとかソレとかについてメッセがきたり電話が来たりして、全然そんことなかったこと発覚。まあ行っとけばよかったかなと思ったが、いいよね行かなくてももうさすがに。ねえ?
とりあえず去年2007年。
http://www.tom.sfc.keio.ac.jp/~next/tdiary/?date=20071202
っていうのを読んだら、なんかもう気分的には数年前の気分な事に気づいた。
2000年ぐらいまでは夏だったような気がするが。冬になったのいつだっけ?
http://www.tom.sfc.keio.ac.jp/~next/diary/2002/12/1.html
と思ったら丁度冬になった年から公開しているようであった。
ついでなので残りの年。
といっても来週の三田は対策出勤予定です。めんどくさい!
しかしなんというか最近システム管理者魂が怠け気味な気がしてきた、けどなんかそれは全人格的には健全な動きな気もする。
結局どこにいってもエイリアンなんだなーと思う。
どこにいっても、たぶん二言目には「で、そのシステムはどうすれば変えられるんですか?」と思ってしまう。
どうも世の中の平均はそうではない。おおかたの認識はこんなところであろう。
多分、そう明示的に認識していないまでも、世の中の多くの人にとって、システムやルールというのはそういうものだと思われているような気がする。
全く持ってSFCのヤなところでもあるのだが、SFC卒の知り合いと話していると、変えるべきシステムやルールを変更すべきだ、という感覚は割と自明に存在する。論点はその難易度とコスト。ところが、どうも世間の平均では、この難易度とコストは常に無限大に見積もられる傾向があるような気がする。
結果として私はどこにいっても、なんだかいつでもエイリアンになってしまう。いつでも当事者目線でない別の自分が「それって変えていいんじゃないの?」とつぶやくんだもの。
SFCっていうのにその原点を求めるのは、今の仕事仲間たちに多いから、理由追及としては分かりやすいけど、個人的な原点はもっと根本的なモノな気がする。
父は物事を突き詰めて考えるのを由とする人だったし(極論も好きだ)、中学や高校ではルールの意味と無意味をかなり徹底して経験したような気がする。大学以降はそんな感じ。初期のパンクやニューウェーブも、モンドリアンや革命ロシア美術が好きなのも、KLFや Second summer of love が好きなのも、日本の鉄道が好きなのも。プログラマの格言「手を抜くためには手を抜くな」がとても好きなのも。
僕は多分システムというものが好きで、その仕組みを考えるのが好きで、それが変わっていくプロセスが好きで、それを変えることにコミットする快感が身についているんだろうな。ま、これって結局、一生つきあうことになるある種の病気みたいなものなんだろうな、と思った。
変えてうまくいくかどうか保証がなくても、変えないでうまくいかないより百万倍マシだ!